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開店の経緯

ずっと百万遍の交差点を行き交う人々を見守っていた石垣さんに開店の経緯をインタビューしてきました。

石垣さんは言います。
想像してみてください。この石垣がどんな風に使われていたか。 そこには、劇団や野菜市、ライブや合唱、楽団、講演会などの立て看板(立て看)がいつも立っていました。
そんななか、2004年9月30日に大学側によって北西門計画が発表されました。それは石垣を壊して遊歩道を建設しようとする計画でした。計画の必要性としては「交通安全」「バリアフリー」「アスファルトが痛んでいる」などが挙げられていますが、その説明は不十分なものでした。
こうして、どういうわけか皆に愛されていたこの石垣が無くなることになってしまいました。

しかも大学側から学生に対してなされた説明の仕方は、大学のホームページに一方的な告知がなされたのと、「『安心・安全・美しいキャンパス』に生まれ変わることになりました」という内容のビラが公認サークルだけに配られた、というだけのものでした。それらの情報には、石垣が壊された後、たて看板を置く代替スペースが確保されるのかどうかも全く示されていなかったのです。

学生の声があがりました。
たて看板の置くスペースがなくなってしまうことは、京都大学の学生を始めとした石垣を使っていた団体、サークルの宣伝にとってものすごく深刻な打撃です。そもそも実際に石垣を使用している人たちに対して何の事前説明も無いままに大学側が一方的に工事の決定をしてよいのか、という疑問の声も上がりました。しかし当初大学側には、この計画に疑問を持った学生と話し合う態度もありませんでした。

そこで石垣会議と名付けられた、学生有志による会議が開かれることになりました。石垣会議には最終的に19のサークル、5の自治会が集まり、週に一回のペースで開かれることになりました。この石垣撤去工事について、いかにして大学側と交渉していくかが学生たちの間で話し合われることになったのです。
石垣会議に参加する人たちは再度大学側に工事計画の保留と十分な説明を求めました。しかし工事強行の気配は消えません。ついに2005年の年明けからは門衛所の取り壊し等が始まりました。

1月13日には学生との交渉の窓口である東山副学長に話し合いを求めようとしたものの失敗に終わります。
ここで「石垣への住み込み」を決意することになったのです。手始めとして抗議の意志を示すためのヤグラを立てることになりました。
そして1月14日夜、ついに百万遍に高さ十メートルのヤグラが姿をあらわしました。

1月16日、第23回全国都道府県対抗女子駅伝、京都市右京区の西京極陸上競技場を発着点に、左京区の京都国際会館前を折り返す9区間42.195キロのコースに、47都道府県が出場して行われ、地元・京都が2時間16分22秒で3年ぶり9度目の優勝に輝いたその時も、石垣はその様子を見守っていました。 そして、この石垣の上にはヤグラが立ち、そのヤグラからは「石垣から僕らは発信する!」「新世代メディア石垣」2つの垂れ幕が・・・。
選手一人ひとりが通り過ぎたのはあっという間の出来事でしたが、その間中、石垣の上では拡声器を使った石垣撤去反対の声が。

1月21日、石垣★カフェの原型となるカフェの部屋、炬燵(こたつ)がこの石垣の上に設置されました。ここから人々の交流は始まりました。
この日、部屋に遊びに来た近所の喫茶店でウェイトレスさんがカフェにしたら?とのアドバイスをくださいました。早速、カフェをすることに。ここから石垣カフェの輝かしい歴史が始まることになったのです。
1月22日、石垣★カフェはオープンしました。昼間はちょっとおしゃれな喫茶店、夜間は楽しいバーとして、近くから遠くからいろいろな人が訪ねて来てくれます。
朋有り遠方より来たる、亦た楽しからずや。
1月28日、ふんわりとしたこの空間でも、勉強したいという声はありました。この日、石垣★カフェは増築され、奥の部屋は勉強部屋としても使われるようになりました。

私たちが石垣カフェを運営するのは、まずは石垣撤去に反対するため、そしていろんな人が集まるコミュニケーションの場を創り出したいという願いからです。人と人とが直接出会うことによって新たなアイデアが生まれることを願いつつ、私たちは石垣の上でみなさんの来訪を心待ちにしています。

これから・・・